今回の東京都知事選挙では「掲示板ジャック」が多くの場所で起きた。本来、東京都知事選挙はもっと重要視されなくてはならないはずだ(写真:アフロ)/>
日本国民「全員」が、7月7日に投開票が行われる東京都知事選挙に衝撃を受けている。私も、もちろん驚いた。
あらためて、これに関連した「3つの衝撃的な事件」について振り返ってみたい。
■目立ちたいなら都知事選以外にも選択肢はある?
第1に、56名もの立候補者がいたことである。昨今、誰も政治家になりたくないから、地方の自治体選挙では候補者不足にあえいでいるところが少なくない。
私もこれだけ世間に攻撃される一方の政治家は割に合わない仕事で、娘がいたら最も勧めない職業だろう。それにもかかわらず、東京都選挙管理委員会が準備したポスター掲示板に収まりきらなくなってしまった。
それにとどまらず、第2に、その掲示板に猥褻(わいせつ)なポスターが貼られたり、まったく無関係な人のポスターが貼られたりした。その話題性で、貼った側はSNSなどで利益や広告メリットを得たもようだという。
そして第3に、これはあまり注目されていないが、テレビなどのメディアで候補者による政策討論会があまり行われていないということである。
これらが起きている原因は、表面的には東京都知事選挙は目立つからである。だが、政治的に何か言いたいことがあるなら、同じ知事選挙なら埼玉県や、千葉県、神奈川県などの知事選挙、こちらのほうに出たほうがいいような気がする。東京近郊だし、候補者も56名に埋もれるよりはかなり少なくなるから、何人かのうちの1人になれる。
政策討論会にも呼ばれるかもしれない。しかし、どうもそれではダメなようである。なぜなら、東京という大都会と違って、千葉や埼玉、そして神奈川でさえも田舎だからである。
実際、前出の第2の現象、卑猥なポスターが例えば千葉県知事選挙で貼られたらどうだろう。おそらく全国ネットのニュースでは取り上げられにくい。千葉ローカルニュースである。仮に関東のニュースで出たとしても、「ひどいもんだな、千葉県民は」と、埼玉県民にバカにされるだけではないか。
しかし、東京都知事選の事件のニュースは全国を駆け巡り、「日本人はどうなってしまったんだ」「もう日本は終わりだ」となる。「愉快犯」のような行動を取る者にとってはやりがいがあるのだ。だから第2の広告効果も出てくる。東京での話題は日本での話題だ。アクセスが伸びるのだ。
■「ポスター」掲示板を廃止すればいいことづくめ?
ところで、せっかくだから、今回のようなとんでもないことをしている人々への「とっておきの対策」を伝授しよう。それは、候補者のポスター掲示板を廃止することだ。
そもそもポスター掲示板なんていらない。顔と名前だけだからだ。ルッキズム批判をするなら、いっそのこと、選挙ポスターに顔写真を貼るのを禁止すべきだ。
名前もどうでもいい。知名度よりも中身だ。政策を掲示するには掲示板は適さない。だから、もともとポスター掲示板はいらないどころか、存在自体がおかしいのだ。その代わり、送られてくる投票用紙に冊子を同封することとして、候補者1人当たり1ページの政策提案を提出させることにする。その際は写真・イラストは禁止し、文字だけとする。これで、少しは政策で決める選挙になるはずだ。
「なんてすばらしい提案なんだ! 小幡くん」とは、誰もほめてくれない、しかし。なぜか? それは、前述の「第3の事件」が示すように、ほとんど誰も政策には関心がないからだ。東京都知事選挙では政策の論点はないに等しいのだ。
実際、1995年以降、東京都知事は全員、いわゆるタレントや知名度が極めて高い候補が当選している。タレント出身であること自体悪いことではないが、これは政策よりも知名度が重要視されていることの表れであることは事実だ。
なぜ、東京都知事選挙では政策が重要視されないのか。それは、東京には問題がないからである。困っていないからである。
さすがにそれは言いすぎだが、東京以外の地域に比べれば圧倒的に困っていないし、政策を必要とする問題が少ないのだ。問題はもちろんあるし、困っている人も大勢いる。しかし、それは都知事による政治的な出番ではなく、細かい個々の問題を丁寧に解決していくことが重要であるのだ。
例えば、一応、都知事選の争点になるかもと言われている神宮外苑の再開発問題であるが、これはまったく重要でないどころか、そもそも争点の土俵に乗らないのではないか。
なぜなら、再開発は民間が事業主体で、東京都ではないからである。明治神宮という一組織が、今後の運営に関して資金を多少捻出する必要があるために、再開発のときに樹木を数百本伐採するというだけのことだ。
東京都は現在事業者に樹木保全策を求めているが、法的な拘束力はないとされる。太陽光パネル設置を無理に推進することで、日本中で何百万本もの樹木が伐採され、山が切り崩されているのはある意味無視しているのに、東京都心の木が数百本切られるとなると大騒ぎになる。
これでは、ポスター騒ぎと本質的にはあまり変わらず、騒ぐために騒いでいるようなものだ。かつ、東京の問題は日本の問題として盛り上がるからやっているのである。つまり、論点になる政策はないに等しい。
■「少子化対策」よりは「子育て・若者支援」に
あえて言えば、都知事選の話題に一瞬なりかけたのは、少子化問題だ。少子化が進む日本で、合計特殊出生率がついに1を割って0.99となってしまった全国最低の東京で、少子化対策を競い合うとメディアははやし立てた。
しかし、実際に各候補者が提案している政策は、どちらかというと出生数を増やす政策というよりは子育て支援や若者支援である。これは三重の意味で正しい。
第1に、現在の日本では(実際にはほぼすべてのアジアの国で、実は多くの欧米諸国でも)、いかなる政策でも出生率を上げることは難しいからだ。
第2に、選挙対策としては、国を憂うる政策よりも、自分自身に配られる現金のほうが圧倒的に効果的だからだ(これはまさに日々、1回の選挙ごとに、未来の日本よりも今日の自分の懐が大事という度合いは、驚くほどの勢いで高まっている)。
第3に、本当に人口を増やすためには、一地域で対策をとってもあまり意味がないから(例えば、出産するための住居を埼玉から東京に移すだけだから)である。
■「政局祭り」に仕立て上げたかっただけ?
しかし、それならばなぜ、メディアは少子化対策が都知事選挙の争点になると思ったのか? それをあおったのか?
それは、国政選挙の代理戦争ということにしたかったからである。そして、それは人々にとっても違和感がないし、かつ、大手新聞やテレビ局などの政治部記者としては盛り上がる。つまり、政局祭りに仕立て上げたかっただけなのである。
実際、都知事選挙は盛り上がる。政策の論点の少なさや選挙の接戦度合いなどからいっても、埼玉や千葉の選挙戦よりも有権者にとってより重要であるとは思えないが、これら2県の知事選の投票率をはるかに上回る。実際、50%を超えることが多いし、平成に入ってからも60%を超えたこともあった。
一方、埼玉は20%台のときさえあり、その他の場合は30%台であり、千葉も多くの場合は30%台だ。それはメディアが取り上げるからであり、全国的なイベントとして盛り上がるからであろう(確かに、千葉都民、埼玉都民という面はあるにしても)。
つまり、都知事選は「愉快犯」、メディア、有権者、そして日本国民、すべての人にとってお祭りだ。
だから、逆に言えば政治に敬意を払わない人々からなめられて、「どうせ、この選挙はエンターテインメントだろ、なら遊んでやれ」、ということが無意識に働いて、集客効果が大きいことと相まって、とんでもないことが(つまり、卑劣な手段により盛り上げるということ)横行するのだ。この破廉恥な選挙への冒涜は、まともな有権者や日本国民全体の気の緩みの反映でもあるのである。
ここに提案しよう。選挙の候補者のポスター掲示板を廃止するだけでなく、都知事選挙も都知事も廃止してしまえばよい。トップが必要なら、国会と同じく、議院内閣制のように、都議会議員の互選で選べばよい。少なくとも、エンターテインメントによってトップが選ばれるというおぞましい事態は回避できるだろう。
■東京は本当に「ブラックホール」なのか
さて、選挙はエンターテインメントであるならば、逆張りの小幡績としては、本質的な議論を東京についてしてみたい。せっかく少子化問題が上がっているので、東京と日本の少子化問題を例に挙げて議論しよう。
実は、先日、あらゆる政策に関する有識者だが、少子化問題についてはさまざまな見識を持っている、ある尊敬する友人に、東京の少子化問題について、いろいろ教えてもらった。彼は、消滅自治体の議論がミスリーディングだと憤慨していた。とりわけ、「東京ブラックホール論」には強く反論し、日本を誤った方向に導くと反論を述べていた。
東京ブラックホール論とは、上智大学の中里透准教授の説明を借りると、
「出生率のデータが公表されると、東京都はいつも最下位となる。にもかかわらず、若者は東京に集まる。出生率の高い地域から低い地域に人が動けば、日本全体として出生数が減り人口減少が加速する。全国から若い人を集めておきながら、次の世代を担う子どもたちを生み育てることのない東京は『ブラックホール』である」(シノドスより)ということだ。
そして、中里准教授らは「これは事実に反する」と主張する。なぜなら、東京の合計特殊出生率が全国最低であるのは事実であるが、実際に生まれてくる子どもの数は必ずしも少なくないからである。
例えば、15歳から49歳までの女性1000人当たりの出生数で見ると、東京は全国で高いほうとは言えないが、全国最低レベルではない。だから、合計特殊出生率で地域ごとの差を議論するのはよくないという議論である。
中里准教授は、この問題を仮想的なケースを例示して説明する。
「いま、『東京国』と『地方国』という2つの地域からなる国を考える。東京国と地方国には20代の女性が100人ずつ居住しており、そのうち50人は「20代で結婚し子どもを産むことを予定している人」(20代で出産する予定の子どもの数は1人)、50人は「20代を未婚のまま過ごすことを予定している人」(20代で出産する予定の子どもの数は0人)であるものとする」(同)
このときに、この後者の50人が、進学や就職のために地方国から東京国に移動すると、東京の出生率は結果的には低くなり、母数が減った地方国の出生率は高くなる。だから、東京の合計特殊出生率が低く、地方が高いのは見せかけで、実際には東京に結婚と出産をしない女性が集まっているだけだというのが、中里准教授らの主張のようだ。
■「地方国」と「東京国」の関係とは?
この議論に、論理的な間違いはない。しかし私は、実際問題としては少し違うのではないかと思う。なぜなら、前提が現実と異なると思うからだ。
すなわち、彼らの例では、各個人は「20代を未婚のまま過ごすことを予定している」(同)といったことが前提になっている。だが私は、そうではなく、人間の多くは弱いから、多数派は環境や周りの雰囲気に影響されて行動を決めるし、人生の選択も(選択というよりも自然の成り行きで、という場合のほうが多いということもあるだろう)、環境に大きく影響されるだろうと考えている。
彼の言う「地方国」にいれば、周りの多くは早く結婚し、子どもも早く持つ。そうすると、なんとなく一人だけ独身でいるのも居心地が悪い。親族が心配して、結婚を勧めてくるというプレッシャーにさらされる。その結果、結婚したほうがいいかなあと思うようになる。
一方、「東京国」にいれば、結婚していても独身でも、同じように行動できるし、一人で出かける場所もあり、おひとり様ディナーに何の違和感もない。仕事もあるし、遊びもできるし、同じような仲間もいっぱいいる。居心地は悪くない。「結婚ねえ、したくないわけではないけど、今困っていないし」と思っているうちに、年齢が上がってきて、「まあいまさら無理に相手探しても、結婚しなくても、まっいいか」となる。
■東京は解放された「ブラックホール」?
私はこの例のほうが多数派だと思うのだが、もしそうだとすると、東京はとてつもないブラックホールであることになる。
合計特殊出生率という「特殊な」統計的数値はミスリーディングで、東京の出生に関する過小認識をもたらしている、という彼らの認識の正反対で、合計特殊出生率に現れている東京の低さ以上に、それを大幅に上回る出生率の低下の原因を「東京」への移住がもたらしているのである。
つまり、前述の50人の移動によって、移動しなければ、地方国で結婚出産していた可能性が高かった女性が、東京国へ移動することによって、生涯未婚(あるいは20代未婚)であることを選択するようになった、ということを意味するからである。純粋に50人子どもが減ったのである。
この前提もまた極端であるが、現実は中里准教授の数値例と私の前提の間ぐらいにあるであろう。しかし、それでも50人の半分なら25人の子どもの純減であり、合計特殊出生率に現れているよりもはるかに大きな、東京の「ブラックホール効果」が存在することになるのである。
上で、合計特殊出生率と女性人口当たりの出生数とに違いが生じると述べたが、その理由は、合計特殊出生率は15歳から49歳までの女性を5歳ごとに分け、それぞれのグループ内での出生数の比率を、各5歳ごとの集団の母数を考慮せずに、つまり加重平均せずに単純平均しているのであり、人口当たりの出生数は単純に15歳から49歳までの女性の全人口とその出生数の比率を取っている。
その結果、15~19歳、20~24歳、25~29歳の実際の女性の数が少ない地方では、その年齢層の女性の出生率は高いので、合計特殊出生率は高くなるが、実際の出生数は少なくなる。逆に、東京では、15~19歳、20~24歳、25~29歳の層の出生率が地方に比べて極端に低く、その数字が足を引っ張って、合計特殊出生率が低く出るが、20~29歳の女性の人口自体は地方に比べて圧倒的に多いので、率は低くても出生数自体はそれなりの数があることになる。
しかし、これは、私の解釈からすれば、地方にいれば子どもを産んでいた可能性の高い女性のほとんどを東京が集めてしまい、その結果、彼女たちの出生率が非常に低くなったのであり、これこそまさにブラックホールであり、東京ブラックホール論は見かけ以上にもっと大きなインパクトを日本全体の出生数に与えているのである。
もちろん、地方社会における女性への圧力は望ましいものとは到底言えないし、その呪縛から逃げ出した女性の駆け込み寺が東京だ、という解釈も成り立つ(私の想定する行動モデルであれば、なおのことこの解釈は当てはまる)から、ブラックホールという語感とは別にそれは望ましいものである可能性もある。
ただ、事実として、東京はとてつもないブラックホールであることは間違いなさそうなのである。
■国民にとって重要な選挙という認識がなされていない
さらに、東京だけでなく、都市部への移動はやむをえない、大学で勉強するため、仕事のために、地方から出ざるをえない、ということで、良い大学や良い仕事のない地方に原因がある、という見方もある。
だが、私はそうは思っていない。もう1つ、行動経済学的な観察として、地方の若者の多くは、大学に行くため、就職のために、東京に行くのではなく、東京に行くために、東京の大学に行き、東京で就職するのである。東京でなくてはだめなのである。
大学だけなら地方にいい大学はいっぱいあるし、むしろ地方国公立大学の方が東京の有名私立大学よりも教育環境としては圧倒的にいいし、企業の人事もそう評価している。
でも、そうじゃない。多くの若者は東京で暮らしてみたいのである。東京という魔物にひかれているのである。だから、東京は罪深い、あるいは、東京はすばらしいのである。
人々の行動、とりわけ、結婚、出産という行動を政策や経済的インセンティブでは動かせないと私は思っているし、多分、それは現実の認識として正しい。そうだとすると、東京というものの役割、日本経済、日本社会における役割、それはとてつもなく重要であり、日本全体への影響は企業収益などの数値的な経済的影響などの何十倍も大きい。
それほど重要な東京であるから、本来であれば、都知事選挙は日本国民全体にとって重要であるはずなのだが、現状ではエンターテインメントとしてしか重要性を認識されていない。そこが、都知事選挙に見る、日本の大問題なのである。
(本編はここで終了です。次ページは競馬好きの筆者が週末のレースや競馬論を語るコーナーです。あらかじめご了承ください)
競馬である。
恒例の夏競馬の季節となり、函館競馬場でも競馬が行われているが、北海道競馬を盛り上げようという自分自身の提案をいろいろ考える中で、函館について、あらためて考えさせられた。
というのも、JRA(日本中央競馬会)の札幌競馬場とNAR(地方競馬全国協会)の門別競馬場、この両方にアクセスしやすいトレーニングセンターを作るという提案を以前したが、それでは函館までは遠すぎるのである。函館も入れた3つの競馬場すべてに近い場所、というのは存在しないのである。
そう、函館と札幌は関東の人間がイメージするよりもはるかに遠い。距離で言えば250キロメートル余り、車で4時間半ほど。東京都と福島県の郡山間とほぼ同じである。
現状、函館はトレーニングセンター(厩舎)代わりの役割も果たしている。レース直前の追い切りが行われ、札幌競馬に出走する際も函館に入厩することが多い。もし以前提案した小幡案が実現し、「JRA‐NAR北海道トレセン」が門別と札幌の間にできたとすると、函館競馬場と函館競馬の役割はどうしたらよいだろうか。
■「函館WIN5」を発売する
私は、開催時期を早めて、日本ダービーが開催される5月末をメドとする週から開始し、トータルの開催日数も増やすのがいいと思う。そうすると開催日数が増え、レース数も増える。
どんなレースを増やすかというと、3歳未勝利戦をとことん増やす。問題は、未勝利戦はレースがつまらなく、馬券も売れないということである。そのため、函館独特の馬券を売り出す。
現在、指定された5レースの勝ち馬を当てる「WIN5」は日曜日だけ発売されているが、土曜日の函館の5つの指定レースで「函館WIN5」を実施するのである。5レースのうち、未勝利戦も入ってくるだろう。
そうすると、大波乱もたまに出てくる(未勝利戦は大本命が勝つことが多いが、大波乱の確率がほかのレースよりも高いとされる)から、的中者なしでキャリーオーバーとなるケースが現在よりも増える。
これが日曜日に持ち越されると、日曜日のWIN5はさらに盛り上がる。サッカーくじのtotoにしてもWIN5にしてもキャリーオーバーとなると、通常よりもはるかに売れる。これで馬券の売り上げを伸ばす(未勝利戦自体の少ない売り上げを補う)。
なお、馬は船酔いにとてつもなく弱いから、札幌、あるいは新しいトレセンへのJRAの定期チャーター便を茨城空港などから飛ばし、函館へは美浦から陸路で行くというすみ分けもより充実させるのがよいと思う。函館競馬をなんとか盛り上げたい。
いつでも確認することが可能です
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